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日本の「心」を示す祝日の風景 |
産経新聞[平成13年1月11日] |
元日の朝。
張り詰めた冷たい空気を感じながら、
東京都江戸川区の杉浦忠雄さん(65)は自宅の玄関前に日の丸を掲げた。
長さ1.5メートル、幅1メートル。
日の丸が、ポールの先で新春の風にゆるやかにたなぴいた。
祝日の朝の日の丸掲揚は父親の代からずっと続いている。
いつのころからか父に代わって、旗を揚げるのは自分の役目となった。
国民の間に日の丸が定着したのがいつなのか、はっきりとは分かっていない。
日清・日露戦争のころではないかといわれている。
そのころから祝日には、玄関先に日の丸を掲げるのが当たり前になった。
戦前からの住宅街だったこの辺りもかつてはそうだった。
通りに面した家々に日の丸の旗がずらりと連なり、赤と白で祝福ムードに染め上げられた。
そんな風景を杉浦さんははっきり覚えている。
終戦後、日の丸を掲げる家がひとつ減り、ふたつ減り。
掲げる方が少数派となったのは昭和30年ごろだろうか。
今では近所を見回してみても、日の丸が揚がっているのは杉浦家だけだ。
「祝日の風景が変わってしまい、寂しい。
日本人は何か大事なものを失ってしまったような気がします」
今では日の丸を手に入れるのも容易ではない。
杉浦さんは5年ほど前に買い替えた。
そのときの驚きをこう明かす。
「どこで売っていたと思いますか。デパートのふろ敷き売り場。
日の丸は今や、ふろ敷きと同じなんですよ」
敗戦で日の丸を否定する風潮が強まった。
戦後の学校教育の問題。
祝日の日の丸がなぜ減ったか、考えられる理由はいろいろある。
その中で、自分が日本人であること、
日本に住んでいることを意識しにくくなったことと、
何らかの関係があるのかもしれないとも思える。
町を歩けぱ外国人があふれ、気軽に海外へ旅行に行けるようになった。
国境線は人々の意識の中でどんどんあいまいになってゆく。
道行く若者に日の丸掲揚について尋ねてみた。
「別に。興味がない」
「揚げたい人だけ揚げれぱいい」
返ってくる答えからは、自分とのかかわりあいをまったく感じさせない。
同じ江戸川区で元日に日の丸を掲げていた社会福祉法人理事長、加藤正弘さん(65)は
「祖先のために、家族のために、人のために、この日本をいい国にしよう。
そんな気持ちは、日本人の中でだんだんなくなってきている」と話した。
偶然なのか、必然なのか。
杉浦さんは企業駐在員として台湾に、加藤さんは医学の勉強に米国に滞在経験がある。
2人は外国に出て日本人であることを意識するようになり、
日の丸掲揚に結ぴついた、という。
「旗日(はたび)」という言葉がある。
今ではほとんど使われることがなくなってきた。
が、島根県益田市飯浦町では「今も祝日と言うより、
旗日と言った方が通りが良い」のだと、
同町自治会長の長田芳人さん(66)が教えてくれた。
同町の約170世帯のほとんどが、今でも祝日に日の丸を掲げる。
通りの左右に日の丸がずらりと並ぶさまは、大正時代にタイムスリップしたようだ。
戦後、日の丸を掲げる家が減りつつあったが、
20年ほど前に老人会のメンバーが国旗の大切さを説いて回り、伝統を守った。
「山と海のすき間にへはりついたようなこの町で
魚がとれても野菜がとれても皆で分け合い、力を合わせて生きている。
この結ぴつきが続く限りは日の丸がなくなることはないですよ」。
この地に40年以上住む弘中シズコさん(76)はそう話す。
地域の人々が残そうとしているのは、日の丸を掲げるというセレモニーではない。
日の丸を掲げ、日本人同士で心をひとつに力を合わせ、未来を託す子供たちのことを思う。
日の丸の喪失は、
日本人が古くから大切に育ててきた“心”の喪失ともいえるように思える。
産経新聞平成13年1月11日付記事より引用